一般社団法人 米国医療機器・IVD工業会

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第1集

【医師と患者家族の思い出対談】渡米して腹部大動脈瘤を手術

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【医師と患者家族の思い出対談】
早くなくしたい「デバイスラグ」

「いつ破裂しても不思議でないほどの動脈瘤です」――こんな診断結果に驚き、怯えながら暮らしていた日々。そんな状況を救ったのは、ニューヨークで最先端医療を数多くこなす日本人医師だった。日本では認められていないその治療を受けるため、家族が下した決断は・・・偶然の出会いと一通のメールから、最先端治療を受けるまでを、家族と先生が振り返る。

市川玲子 大木先生、帰国されてからもますますお忙しいご様子ですが、あの時のことは何度思い出しても胸が熱くなります。本当にありがとうございました。

大木隆生 初めてお会いしたのは2002年の初めでしたね。私は毎年1000件ほど手術をこなしていますが、今でもニューヨークまで来られた市川さんのことは鮮明に覚えています。

咳でも破裂しそうな動脈瘤

市川 私の義父、つまり夫の父親の治療をお願いしたんですね。でも、当時は先生はニューヨーク市のアルバート・アインシュタイン医科大学に勤務されていましたから、簡単にお目にかかれたわけではありません。富士市に住む義父が痔の治療で、近所の肛門科医院に行ったところ、院長が「市川さん、いま痔の治療どころではありませんよ。腹部に動脈瘤が出来ています。大学病院ですぐに診てもらって下さい」とおっしゃって、すぐに静岡県内の基幹病院を紹介してくださったのです。大慌てで紹介された病院で診ていただいたのですが、本人を目の前にその診断内容はかなりショックなものでした。「いつ破裂しても不思議でないほどの動脈瘤です。くしゃみや咳がきっかけでも破裂しかねない大きな動脈瘤です。破裂したら血の海になりますよ。すぐにでも手術したいのですが、ご高齢に加え肺気腫で肺も弱っていますから手術は無理です」とさらっとおっしゃったのです。まるで、どちらにしてもすでに80歳を過ぎているのだから、このままでも変わりない、と言わんばかりでした。

大木 血の海とは、ちょっと大げさですね。破裂した場合出血するのは体内ですから……。

市川 でも、何も分からない義母はその言葉を真に受けて、義父の布団の下に大きなビニールシートを敷いたりして大騒ぎになりました。義父は顔面蒼白でおろおろするばかり。くしゃみもしないように神経を使っていました。こんな恐怖から父親を救いたいと夫婦で真剣に動き出したのです。まずは、知り合いの先生に相談しました。子ども達を介したつながりで長く親交があり、何でも親身になってくださるご夫婦でしたので、困り果てておすがりしたわけです。この先生は、慈恵医大の内科医でいらしたので、何かご助言をいただけると信じていました。

大木 その先生から初めて私のことをお聞きになったんですね。

市川 はい。まず奥様にご相談したところ、その2年ほど前、奥様のお父上が動脈瘤を全身麻酔を必要としないステントグラフトでニューヨークの有名なドクターに治療していただいたとお話を伺ったのです。そのドクターこそ、大木先生だったのです。何というタイミングの良い奇縁でしょう。

ニューヨークに届いた悲願

大木 私は1995年からニューヨークのアルバート・アインシュタイン医大病院で診療をしていましたが、1999年に一時帰国をした折、慈恵医大病院で知人のお父様の手術をしました。当時は、開腹も全身麻酔も必要としない「ステントグラフト」は日本では使うことができませんでしたので、私がアメリカで部品を組み合わせて手作りしたステントグラフトを持ってきて使ったのです。【注1】

市川 私どもは開腹しないですむ手術法を探していたので、奥様のお父様のお話を伺いほんとに救われた気がしました。奥様のご主人はさっそくニューヨークの大木先生にメールしてくださり、やがて私と大木先生との間で義父の治療に関するメール交換が始まったのです。

大木 当時米国から日本に持ち出せるステントグラフトは性能の劣る手作りのものしかありませんでしたので、市川さんは米国で治療を受けることになったのです。日本の方がアメリカに来て手術を受けるためには、いろんな問題をクリアする必要がありました。

市川 私は大木先生が何とかしてくださるだろうと、祈る気持ちでメールを送り続けました。「ステントグラフトの世界的権威」と伺っていましたので、10通送れば1通ぐらいは返信してくださるかも……と必死でした。ところが、いつもすぐ返事をくださって、励ましのお言葉まで頂戴し……。夜中にメールを読みながら、涙が止まらなかったことを覚えています。そして送信したメールの数はいつの間にか80通を越えていたのです。

大木 またメールが来た・・・」って、僕も違った意味で涙が出ていたと思います。そんなに多くのやり取りをしたんですね。暇だったのかなあ(笑)。

市川 奇跡的でした。義父を救いたいという必死な思いが先生に届いたのです。こうしてやっと具体的な手術日程が提示され、ついに2002年1月11日、ニューヨークのJFK国際空港まで先生自らがお出迎えくださり、初めてお目にかかれた次第です。

大木 「あす破裂してもおかしくない」と、いわば死刑宣告をされた人が、お腹を切らずに治せる低侵襲な治療法を求めて初めての海外、アメリカに来られたのです。おろそかにはできません。

市川 カテーテルを挿入する鼠蹊部そけいぶだけの局部麻酔ですんだので父はずっと意識があり、ときどき大木先生と会話を交わしながらの手術でした。私は特例で手術着を身にまとい手術室に入れていただき、手術が英語で行われている間、義父の通訳として付き添わせていただきました。

局所麻酔で3日後には退院

大木 開腹することなく、局所麻酔で動脈瘤を治療できるのがステントグラフト術のメリットです。家族を手術室に入れないのが原則ですが、お父様がまったく英語を話せないことに加え肺気腫を患っておられたので、不安を除くためにもと特別に配慮しました。無事に手術が終わって私もホッとしました。

市川 おかげさまで3日後には退院してホテルに移り、渡米から1週間足らずで元気に日本へ帰ることができたのです。

大木 腹部大動脈にステントグラフトを挿入する手術は1991年に始まっており、市川さんがニューヨークに来られた時はもう10年の経験がありました。ですから、実質的に大変だったのはアメリカの医療保険に入っていない患者さんの治療費の問題です。アメリカの病院はどこでも、もらえる方からはもらおうとします。だから入院が長引けば負担が大きくなるのです。

市川 退院の日、先生が少しでも安くすむように真剣に病院側と交渉してくださったお姿は今でも鮮明に覚えております。ほんとに何もかも順調に運んで助かりました。先生は当初から「この手術は単に延命のためにするのではなく、患者さんのQOL)を高めるためにするのです」とおっしゃっていました。その通りでした。くしゃみや咳にもおののき、トイレでも用をたすことさえ躊躇する毎日から解放され、安心して外出することもできました。こうして父はその生涯を安らかに終えることができたのです。

大木 この治療法がアメリカで保険診療になったのは1999年で、日本で使えるようになったのは2007年でした。いまも胸部大動脈のステントグラフトはまだ日本では使えません。【注2】このような日米のデバイスラグは早くなくしたいですね。ともかく市川さんは最期まで家族の愛情に支えられて幸せな方だったと思います。

市川 私どもも父を治すにはこれしかないと確信していました。先生には長期間にわたってお世話をおかけしまして、心からお礼申し上げます。

【追 記】

2008年7月19日付の朝日新聞に「デバイスラグ」に関する記事を見つけました。日本では申請から承認まで22.4カ月(2005年度調査)であるのに対し、米国では14.5カ月だそうです。この8カ月の開きが尊い人命に及ぼす影響は大きいと思います。

義父は、たまたま多くの善意と幸運に支えられ良い結果に恵まれましたが、我々の経験はレアケースであり、神様事であったとさえ思えます。頼るべき親しいドクターもなく、費用の面でも高いハードルに行く手を閉ざされ、命を縮める結果に本人も家族も泣かなくてはならないケースが大多数だとして、その大きな理由の一つに「デバイスラグ」があるとしたら、早急に改革していただきたい、と痛感いたしました。誰もが親身に相談に乗ってくださるドクターや世界的名医に出会えるわけではないのですから……。

2008年8月 市川玲子

【注1】腹部大動脈のステントグラフトは2006年7月に輸入販売承認を受け、翌07年4月に保険適応された。

【注2】この対談が行われた後、胸部大動脈のステントグラフトは2008年3月に輸入販売承認を受け、6月に保険適応された。

写真右: 大木 隆生先生
東京慈恵会医科大学 外科学講座統括責任者・教授

写真左: 市川 玲子さん
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