間違いの根源は「医療費亡国論」
2008年7月1日
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大村 昭人 氏 帝京大学医学部名誉教授、同大学医療技術学部臨床検査主任教授
日本の医療制度にわざわいを招いたのは1983年、当時の厚生省保険局長・吉村仁氏が発表した「医療費亡国論」です。少子高齢化が進展して社会保障費が増大すれば、経済を中心に日本の活性が奪われるという主張で、それに基づいた施策が展開されることになったのです。
ところが厚生労働省が94年に予測した2025年の医療費は141兆円だったのに、次々と下方修正されて2007年の予測では65兆円まで減っています。また2000年を境に医師が過剰に転ずるという予測も、07年現在で日本の医師数は絶対数でOECD(経済協力開発機構)30カ国平均と比べて10数万人不足しています。このように医療費亡国論はその信頼性がぐらついているのです。
日本の医療はアクセス、コスト、質の点で非常に優れていますが、医療従事者の献身的な努力によって支えられてきました。OECD加盟各国と比較して医師数や看護師数は圧倒的に少なく、特に米国に比べると病床数あたりの医師の数は約5分の1、看護師数は約6分の1しかありません。
医療は経済を発展させる原動力
このような「医療費削減」政策は、多くの国の方向とは逆行しています。EU(欧州連合)の国々では、医療が経済活性化の要であることが認識されているのです。EC(欧州理事会)の05年8月のレポートによると、EU諸国では医療への投資が経済成長率の16~27%を占めています。EU15カ国に限ると、医療制度の経済効果はGDP(国内総生産)の7%に相当し、これを日本に当てはめてみると、年間35兆円ほどGDPを押し上げることになります。
EU諸国では医療・福祉は国の負債ではなく、経済発展の原動力と認識されています。その具体例として、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、ノルウェーなど北欧の国々は、租税や社会保険料の国民負担率が非常に高いのに、医療福祉産業を育成しながら経済競争力では世界のトップ10を維持しています。国の手厚い社会福祉政策の下で女性や高齢者、障害者も働く機会に恵まれ、それぞれ自立して社会に貢献しているのです。
いったん荒廃すると回復は困難
アメリカではレーガン政権時、民間医療保険(HMO)の自由化と市場原理を導入した結果、いま約4,700万人が保険未加入となっています。同国では「マネジドケア」(管理医療)の名の下に民間保険の力が強大で、医療提供者(医療機関)の裁量権と患者の診療へのアクセスが大きく制限されています。
またイギリスでもサッチャー政権によって医療費抑制政策と市場原理が導入され、「入院・手術待ち1年以上」が当たり前になり、数年前のインフルエンザ流行時には多くの高齢者が入院できずに死亡しました。その後ブレア政権が公的支出と医学部定員を50%増やす新政策に着手したが、改善されていません。医療制度はいったん荒廃すると、回復には膨大な支出・エネルギー・時間を要するのです。
日本は医療費抑制策を進める前に、一般会計の約3倍(225兆円)もある特別会計の無駄を省くのが筋というものです。国が医療に投資して医療業界の雇用を増やし、また医療産業を活性化させれば、日本の経済力向上に貢献できるはずです。
薬品や医療機器の輸入承認を急げ
私は、欧米で安全性が確認されている医薬品や医療機器は自動的に承認すればよいと考えています。これまで欧米からの輸入を申請する場合、書類作りなどに時間がかかり過ぎていました。人種差などはそれほど大きくないし、どんなに慎重に治験を行っても市場に出すと予想外の副作用は現れます。副作用は見つかった段階で迅速に情報を流して対応すればよいのです。恩恵が受けられないまま亡くなっていく患者がいる現状は許せません。この改革は政治家が主導する必要があります。
また医療機器については、承認を遅らせている薬事法を改正し、医療機器を審査するスタッフを大幅に増やす必要があります。医療機器で患者が障害を受けることはまれだし、ほとんどヒューマンエラーです。承認に手間取っているうちに、新しい機械も中古品同然になってしまいます。
日本は素晴らしい技術大国です。日本人の高い技術と能力を生かし、医療の多様な分野に積極的に投資すれば、医療の質が向上するだけでなく、日本経済に大きな波及効果をもたらし、日本の国力が増して国民の幸せにもつながります。今すぐ“医療費亡国論”の呪縛から脱却して、「医療立国」をめざさねばなりません。